田口さん一家のキッチンには、先代から受け継がれた年季の入った鉄フライパンがありました。それはどんな料理も美味しく仕上げてくれる、一家の宝物のような存在でした。しかし、ある夏の日、その宝物が深刻な衛生問題の渦中に立たされます。中学生の娘さんが、夜中にキッチンでゴキブリがそのフライパンの上を歩いているのを目撃してしまったのです。娘さんの悲鳴に家族が集まり、事態を知った妻の良子さんは顔面蒼白になりました。「もう無理よ、あんなものが這ったフライパンなんて…」。良子さんは、すぐにでもフライパンを捨てたがりました。しかし、夫の隆さんは「待てよ、これはただのフライパンじゃない。それに、鉄なんだぞ」と引き止めました。隆さんは、ゴキブリが媒介する菌の危険性を認めつつも、鉄という素材の可能性を信じていました。彼は家族を集め、一つの「実験」を提案しました。まず、インターネットでゴキブリが媒介する菌と、それらを殺菌できる温度を徹底的に調べました。そして、家族が見守る中、コンロに鉄フライパンを置き、換気扇を最大にして火をつけました。フライパンはみるみるうちに熱せられ、やがて白い煙が立ち上り始めます。「この温度なら、どんな菌も生きられないはずだ」。隆さんはそう説明しました。完全に空焼きを終え、自然に冷ました後、丁寧に洗い清め、改めて油ならしを行いました。黒々とした輝きを取り戻したフライパンを前に、良子さんの顔から不安の色が少し和らぎました。もちろん、一度抱いた嫌悪感が完全に消えるわけではありません。しかし、家族の前で科学的な根拠をもって衛生面での安全性を証明したことで、田口家は大切な宝物を失うことなく、再びそれと共に食卓を囲むことができるようになったのです。